2011年4月21日 (木)

百人一首 第97番 「権中納言定家)

R0011997

第97番 「権中納言定家」(そのⅡ)

 定家の作品(

  定家の母が亡くなった時

玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風

               (新古今集・巻八哀傷)

 ② 六百番歌合より、春中十三番 雲雀(ひばり)

末遠き若葉の芝生うちなびきひばり鳴く野の春の夕暮

                 (玉葉集・春上)

  同上歌合より、恋 五番

年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮

                (新古今集・恋

  二十才の時の歌

いづる日のおなじ光に四方の海の浪にもけふや春はたつらむ

  二十一才の時の歌

冬きてはひと夜ふたよを玉篠の葉分(はわけ)

           の霜のところ狭(せ)きまで

                    (月歌和歌集)

   

ふりにけるそのみづぐきの跡ごとに人の心を見るぞかなしき

                    (堀河題・懐旧)

  二十三才の時の歌

しのべやと知らぬむかしの秋をへて同じかたみにのこる月かげ

                    (賀茂社歌合・月)

  二十五才の時の歌

見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮

                  (二見浦百首)

   

    === ** === ** ===

「権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)」(その

 定家の勅勘事件に就いて

 「折口信夫」著、定家晩年の歌風に就いてより抜粋。

 定家の家集を「拾遺愚草(しゅういぐそう)」という。拾遺は侍従の唐名である。定家は後に正二位中納言に昇り、京極中納言と云われたのであるが、「初学百首」の出きた養和元年の頃は侍従であった。それで「侍従のつくっておいたつまらぬ詠草」という意味だ。おそらく晩年に定家自身が集めたものに違いない。

この中で制作時の明記してあるもので一番古いものは、貞永元年四月定家が七十一歳の時の「関白左大臣家百首」が一番古い。その前年の寛喜元年十一月には「女御入内御屏風歌」を作っている。此れも百首歌で七十歳の作である。

油の乗ってきた頃と、年とって枯れてきた七十歳頃と、その間四十年も隔たっているので、歌風の変化もみられる訳であるが、定家の歌風というものは、若い時と年取ってからとその間に一貫したものを持っていることが分る。

例えば私が以前、定家の枯れ切った頃の作品としてあげた

末遠き若葉の芝原うちなびき雲雀鳴く野の春の夕暮れ

私は新古今集の後に出きたものと思っていたが、実は三十二才の時の作品なのだ。

定家は元々こんな歌風をみせていたのだという事が分る。          ( 後略 )

  後鳥羽院御口伝の定家評に就いて ( 抜粋 )

 あの定家という男は、確かに比肩する者のない歌人である。あのようにすぐれていた父俊成の歌をさえも敬服するに値しないと思っていたのであるから、まして彼が他人の歌を問題にもしていなかったことは云うまでもない。確かに定家の歌の優艶でしかも複雑な屈折に富んだ詠みぶりは、本当に類のないものと思われる。歌道に練達していた有様などは、特に勝れていた。彼の歌をよしあしを識別しているようすは、本当にたいそう見事なものであった。

但しある歌を弁護しようという気になると、鹿を強引に馬だと言いなすようなことも辞さなかった。その傍若無人な態度は常識を超えていた。 

他人の言葉にまるで耳を借そうともしないのだ。              (以下後略)

 === ** === ** ===

以上で「権中納言定家」の講義解説を終了。

 

次回は、第98番 「従二位宮内卿家隆」の解説を              お送りします。

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 牧 宏安先生 

 やっと一年ぶりの再開、本当に有難うございます。その後の体調はいかがでいらっしゃいましょうか、お伺い申し上げます。

愈々あと三人となりましたが、これからが又、百人一首 成立の重要な鍵を握る人物の登場!と伺っております。講義は年内一杯かかる予定との事ですが、どうぞお体にお気をつけられご無理のない様に宜しくお願い申し上げます。sakura

sakuraHP ←百人一首(そのⅡ)(その Ⅲ )                 解説が詳しく載っています。

  

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2010年7月 3日 (土)

百人一首 96番 97番

Hyaku

第96番 入道前太政大臣                   (にゅうどうさきのだじょうだいじん)

 花誘う嵐の庭の雪ならでふり行くものは我が身なりけり” (新勅撰集巻十六・雑一)

「花を誘って散らす嵐の庭には、雪のように桜が散るのだが、降り行くのは花吹雪ではなくて()り行く(年老いて行く)のは、実は我が身なのだなあ」栄華を一身に集めながら、ふと感ずる老いの到来。 

絢爛と降る花吹雪がイメージとして先ず浮かび、 一転してそれを否定老いを嘆く白髪の老人の姿がある。すぐれた述懐の歌である。

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次回は愈々百人一首の撰者「藤原定家」です。  引き続きまとめの作業をして順次送信致します。 最後の五人が一番大切な所なので恐らく本年一杯はかかると思います。 

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第97番 権中納言定家                       (ごんちゅうなごんさだいえ)-その

来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ” (新勅撰集巻十三・恋三)

「おとずれてくれないあの人を待っている(松帆の浦の夕凪の海辺で焼く藻塩が焦げて)身もこがれるように切なく思い続けながら」

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今回は百人一首撰者の「定家」の第一回目の解説を送信致します。

次回からは、定家の作品など引き続き送信する予定ですが、恐らく複数回続くものと思います。

           解説者 牧 宏安

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sakuraHP ←百人一首 96番・97番

牧先生

何時も解説有難うございます。又この度はこちらの不手際でアップするのが遅れてしまい申し訳ございませんでした。ちょっとしたミスでもHPに転送出来ない事が良く分かり何時も良い勉強になります。

今回はマウスの調子も悪く次々とトラブル発生で参りましたがやっと解決してホッとしています。

どうぞお体にお気をつけられ 何卒今後ともよろしくお願いいたします。

sakura

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2010年1月 3日 (日)

百人一首 前大僧正慈円

Hyakujpg

第95番 前大僧正慈円

(さきのだいそうじょうじえん)

 おほけなく憂き世の民におほふ哉

    わが立つそまの墨染の袖

      (千載和歌集巻十七・雑中)

 「身のほどに過ぎたことながら、法の師としてこの憂き世の民の上におおいかけることであるよ。比叡山に住みはじめて身につけているこの墨染の衣を」墨染の衣をおおいかけることは、仏法によって天下の民を災禍から守り、無事安穏を祈るという意味である。(わが立つそまは比叡山のこと)

 慈円の生涯

鎌倉時代の歌人。 関白藤原忠通の男。 関白九条兼実は同母兄。仏門に入り、法名「慈円」 24歳で法性寺座主、38歳で天台座主となった。建久7年(1196年)の政変による兼実の失脚に伴い、すべての職位を辞したが建仁元年(1201年)天台座主に戻った。嘉禄元年(1225年)近江国東坂本の小嶋房で入滅、71歳であった。

 慈円の作風 

 慈円の歌・抜粋頼朝はその後も上京し、東大寺の供養などにも詣でたが、正治元年(1199年)正月亡くなった。 頼朝の突然の死は、慈円をはじめ親幕派の九条家一門にとっては誠に痛恨事であったと云えよう。

 正徹物語より

 増鏡・頼朝の上洛より

右大将頼朝卿が任官のお礼に上京、再び都から鎌倉に帰られる時、

   慈円が頼朝卿に贈られた歌

東路の方に勿来の関の名は

   君を都に住めとなりけり

「東国の方に来るなと勿来の関がありますのは、あなたが東国へ帰るな都に住めということですよ」 (勿来関は福島県)

   返し:頼朝卿

都にはきみに逢坂近ければ

   勿来の関は遠きとを知れ

「都には君に逢うという名の逢坂が近いので、またお逢いしましょう。勿来の関は鎌倉より遠いので、私どもには関係ある事ではありませんよ」

   □ 結び

  頼朝はその後も上京し、東大寺の供養などにも詣でたが、正治元年(1199年)

 正月亡くなった。 頼朝の突然の死は、慈円をはじめ親幕派の九条家一門にとっては誠に痛恨事であったと云えよう。

 以上 この項終り。 

 次回は「入道前太政大臣」の予定。

  文中の引用資料

① 有吉 保「前大僧正慈円」 

      歴史読本・百人一首より

 正徹物語 

  室町時代前期の歌僧・正徹著の歌論書

(1448~50年頃)成立。

増鏡 鎌倉時代150余年間の事績を

編年体で記す。

    解説者 牧 宏安 

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  Cid_000601c91a04568b49500201a8c0fmv 牧先生

お正月の歌に良い歌でございますね。

お偉い大僧正でおられるのに謙虚な心、衆生済度の大きな慈悲とその覚悟をつつましい態度で 雄大な気概の歌を詠まれていると感じ入るばかりでございます。

今年最初の百人一首が95番。後、愈々5首となりました。今年も何卒ご健康で続けて解説をよろしくお願い申し上げます。

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sakura HP  百人一首 

 

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2009年11月18日 (水)

百人一首94番

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み吉野の山の秋風小夜ふけて

     ふるさと寒く衣うつなり

     (新古今集巻五・秋下)

「吉野の山の秋風が吹きおろし、夜更けて古京である吉野の里は、寒々として衣を打つ音が聞こえてくることよ」

この歌は、み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり”(古今集・坂上是則)を本歌としている。 本歌の冬の寒さを秋の寒さに変えて、秋の夜寒を砧の音によって捉え、寒々とした感覚を聴覚的に把握している点が優れている。

 結び

  雅経は上洛後、後鳥羽院歌壇の中心として活動し「新古今集」撰修の為和歌所が設けられるとその寄人に任命、更に撰者に任命され「新古今和歌集」の撰歌作業に専念した。

 元久二年(1205年)「新古今集」は撰集完成。 撰者の撰び入れ歌は、藤原定家・家隆に次いで雅経は第三位であり、この撰集作業で果たした役割は大変大きいものであった。

 雅経は蹴鞠の家芸に優れていたほか、能書家であり又篳篥(ひちりき)の名手でもあった。

官歴は承久二年(1220年)参議に昇進、翌三年五十二歳で生涯を終えた。

  以上、この項終り。 次回は「前大僧正慈円(さきのだいそうじゃうじゑん)」の予定。

          解説者  牧 宏安

sakura-HP94番(参議雅常)

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篳篥(ひちりき)について、、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%B3%E7%AF%A5

篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。

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2009年11月 8日 (日)

百人一首 93番

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世の中は常にもがもな渚こぐあまのをぶねの綱手かなしも” (新勅撰集・巻八)

 「この世の中は永遠に変わらないものであってほしいものだ。 

この渚をこぐ漁夫の小舟の綱手を引いていく景色にしみじみと心が動かされることであるよ」鎌倉の海岸で経験した実景に触れての感動を詠んだもの。 作者の永遠を希求する心、自然の美しさを感ずる心、異質な二つの要素が一首としてうまくまとめられている。

 鎌倉右大臣に就いて

 実朝の歌・抜粋 

 詞書・箱根の山をうち出でてみれば波の寄る小島あり・・・

 景物を実体験としての歌  

 詞書・道のほとりに幼きわらはの母をたずねていたく泣くを・・・

 詞書・荒磯に波の寄るを見て詠める 

 詞書・またのとし二所へまいりたる時・・・ 

 詞書・走湯山参詣の時

 詞書・心の心を詠める

 結び

 鎌倉幕府は実朝の暗殺により、源家の血筋は断絶した。

実朝暗殺後、北条義時は京より九条頼経を将軍に迎えて幕政を断、武家政治の優位を確立執権政治の基礎を築いた。

頼朝の死後、二代・三代の将軍をめぐって、北条時政・義時親子と、頼朝に従って功労のあった豪族宿将たちとの間に起こった権力争いは凄惨なものであった。 源家に功のあった重臣たちを一族もろとも次々に滅ぼし、最後に将軍をも殺して権力を握った北条氏の権謀はまさに凄まじいものであった。

三代将軍実朝はその激しい渦の真っ只中にあり、実朝が武家でありながら京の文化にこころひかれ、遂に武家になりきれなかった事が、鎌倉幕府により否定され実朝抹殺の悲劇を招くこととなった。

その後義時の子、泰時は父の没後執権となり、御成敗式目の設定をはじめ、その治世には見るべきものがあり、公武双方から後代まで名政治家として評価された。

泰時以降鎌倉幕府は、北条一族が執権職として強力に推進していくことになる。

  実朝の悲劇を後世「太宰治」は、裏切られても平然として滅亡出きる理想の人物として実朝を描いている。 これは太宰がひそかに願い続けた自画像であったのかも知れない。

また「小林秀雄」は、実朝を陰惨な暗殺集団の上に乗っかった、無垢な詩人の孤独感に重点を置いて描いている。

実朝の人間像は、鎌倉の歴史と文化を背景として、これからも末長くその魅力を世の中の人々の心の中に生き続けていくことであろう。

 文中引用の参考資料

   「吾妻鏡」 鎌倉後期成立の史書五十二巻、鎌倉幕府の   公的な編纂と云われる。

   折口信夫・「短歌本質成立の時代」(全集第一巻)

   吉本隆明・「源実朝」(ちくま文庫)

   有吉 保・「鎌倉右大臣」(歴史読本)

   矢内原伊作・「源実朝」(雑誌太陽)

以上 この項 終り。解説者 牧 宏安

 sakura-HP 93番に詳しく解説が載っておりますのでご覧くださいませ。

最近あまりにも迷惑コメントが入りますのでコメント欄はすべて閉じさせていただきました。

何時もお越し頂き有難うございます。sakuraCid_000901c80a0a8246ae000201a8c0f_5

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2009年9月16日 (水)

百人一首 92番

Hyaku

讃岐の作風は武人の娘らしく筋の通った歌が多いが、全体に歌林苑風から新古今風への軌跡を示している。また、名歌として伝えられる ”世にふるは苦しきものを真木の屋に ~ ” の歌は、後世、宗祇の”世にふるも更に時雨の宿りかな”や、芭蕉の”世にふるも更に宗祇の宿りかな”に影響を与えた。

讃岐の歌風の特色には、中世風の隠逸への傾斜があったと思われ、いわば時代の先取りとしても注目されるものがある。
 以上、この項終り。 
            解説者  牧 宏安
           
   10月は「鎌倉右大臣(源実朝)
sakura-HP ←92番二条院讃岐

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2009年8月 6日 (木)

百人一首

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結び

 後京極摂政前太政大臣というのは藤原良経の事。
良経には漢詩文的な隠遁趣味があったようで、それが彼の和歌にも反映しているが、良経の歌に見られる美意識はかなり特色がはっきりして居り、清爽感が顕著で声調もそれにふさわしくまことにすっきりしている。
”あすよりは志賀の花園まれにだに誰かは訪はむ春のふるさと”
            (新古今集巻二・一七四)
 上記に認められるような寂滅に向かう艶麗さが良経の愛する世界であり、それは感傷と虚無との間を漂う魂なのであった。
     以上 この項終わり。 
    次回は九月、「二条院讃岐」 の予定。
               解説者  牧 宏安
(90番、91番と 同時アップ致しました)

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2009年6月17日 (水)

百人一首 式子内親王 その二

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結び 「新古今前後」-(前述・折口全集第十六巻)の論評より抜粋                     「式子内親王」の御歌には、当時の流行に従ってそれなりに優れたものがある。独特の静かな女らしく柔らかなものも沢山ある。歌の上だけでみると、素直なものを作られて居るので分らないがこの御方には少し御性格の変わられた所があるらしい。内親王は父帝(後白河天皇)からも愛せられて、大炊御門院という御殿を譲り受けて居られる。 つまり後院(ごいん)である。  以仁王も内親王の弟宮であらせられる。 関東方面と関係がおありになったのかも知れない。橘兼仲等の陰謀事件にも坐して居られて、どうも我々が歌の上で想像申し上げている御方とは違う。 京都に於ける政治上のの一つの勢力になって居られたらしい。文学上の才能と政治上のとは一つでないが、内親王の御歌に就いては、こういう鎌倉時代の事情を背景として見直す必要がありそうだ。 以上、この項 終り。

次回は「殷富門院大輔」「後京極摂政前太政大臣」の予定。

               解説者 牧 宏安
sakuraーHP 百人一首 式子内親王(その二)
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(一)「新古今前後」-折口信夫全集・
第八巻より六首
(二)「女流短歌史」-折口信夫全集・
第十一巻より二首
(三)「新古今和歌集」-折口信夫全集・
ノート編 第五巻より四首
沢山の歌の解説 興味深く読ませて頂きました。有難うございました。
牧先生 この度はHPの転送がうまくいかなくて折角早くに送信頂きましたのにブログに載せるのも大変遅くなりました。本当に申し訳ございませんでした。来月からは大丈夫だと思いますので、又よろしくお願い申し上げます。sakura(*^。^*)  
(申し訳ございませんがコメント欄は今回も閉じさせていただきます

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2009年3月25日 (水)

百人一首 88番皇嘉門院別当            89番式子内親王 

Hyak

第88番「皇嘉門院別当 」                                               (こうかもんいんのべっとう)
 ”難波江の芦の刈り根の一夜(ひとよ)ゆへ
                        みをつくしてや恋ひ渡るべき”
           (千載集・巻十三 恋三)
 「難波江の芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、ただ一夜の短い旅の仮寝のために、この身をささげ尽くしてひたすら恋い続けなければならないのでしょうか」
□ 皇嘉門院別当に就いて
  平安・鎌倉時代の歌人。 村上源氏、源俊隆の娘。 生没年未詳。
皇嘉門院(崇徳天皇皇后・藤原聖子)に仕えて この呼名がある。皇嘉門院に仕えていた女房に、近江・尾張・出雲などが居り、そのなかで皇嘉門院を冠せられる歌人としては、別当の他に出雲・治部卿がいるが、何れもすぐれた歌人とは云い難く、その中では比較的別当の詠歌が目立っている。
                  (この項 終り)
第89番 「式子内親王」 
      (しょくしないしんのう)
 ”玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
                        忍ぶる事の弱りもぞする”
          (新古今集・巻十一 恋一)
 「わがいのちよ、絶えるならば絶えてしまえ。恋心を忍んでいることが出きなくなって、人に知られてしまいそうだから」
定家が百人一首に撰んだ冒頭の一首は、心情の屈折感と文脈とが必ずしも融けあっているとは云い難く、代表作とするにはやや問題があるが、「玉の緒よ」の歌の激しさが、高貴な人の幻想的雰囲気の中に吸収、享受されている事を評価したのであろう。
          解説者 牧 宏安
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皇嘉門院別当は簡単な解説となっておりますが、式子内親王は内容が豊富なので次回四月に又引き継いで牧先生に解説をして頂きます。
”玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば
      忍ぶることの弱りもぞする”
この歌も私は大好きな歌です。                  内親王で斎院という身分の作者の立場を考えると、この歌のやるせない悲しさ、女心の美しい優しさが伺えます。
sakura-HP 88番と89番

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2009年2月 4日 (水)

百人一首「寂連法師」

Aki

第87番 「寂蓮法師(じゃくれんほふし)」
 ”村雨の露もまだひぬ真木の葉に
        霧立ちのぼる秋の夕暮れ”
            (新古今集巻五 秋下)
□ 寂連法師に就いて
父は藤原俊海、幼名を定長といった。 十二歳の時伯父藤原俊成の養子となったが、十年後俊成に実子定家が生まれそれを機会に俊成の元を離れ、二十三歳で出家寂連と名乗った。西行・定家と共に、所謂「三夕(さんせき)の歌」の歌人として有名であるが、「三夕の歌」として評価されたのは、百人一首に撰ばれた冒頭の歌ではない。 何れも新古今集に入集された以下の三首である。
  ① 寂連法師
    
”さびしさはその色としもなかりけり
        真木たつ山の秋の夕暮れ”
           (新古今集巻四 秋上)
    
   ② 西行法師
”こころなき身にも哀れはしられけり
        しぎたつ沢の秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
   ③ 藤原定家
”見わたせば花も紅葉もなかりけり
       浦のとまやの秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
    □ 結び
  出家した寂連は、多くの貴族・公家・歌人が住む京都の嵯峨に移り住んだ。そして美しい土地の自然を題材に多くの歌を詠んで過ごした。
  後鳥羽上皇は、予々歌人としての寂連を高く評価されていたが、ある日上皇の使者が寂連の庵を訪ね、この度当代一流の歌人(良経・慈円・定家・家隆など)十人に十首づつの歌を出してもらうことになり、寂連法師にもお願いすることになったので、との要請があった。
 寂連は、この上ない名誉と思い詠み上げた歌の中の一首が、冒頭の百人一首の歌である。
 秋の寂しさ、もの悲しさを詠んだ秀作とされ、歌合せでも大評判であったと伝えられている。
  以上でこの項終り。 次回は皇嘉門院別当の予定。
     解説者  牧 宏安
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娘時代、お正月にカルタ取りをしていた頃を思い出しました。 好きな歌の一つで、「村雨の、、」と聞こえたら”霧立ちのぼる秋の夕暮れ”を手元に置きパッとカルタを取ったものです。今の時代は あまりにも色々な遊びがありすぎてカルタ取りなどしなくなって残念なことだと思います。
今回の牧先生の解説が短いので、そのままアップさせていただきました。歌の訳は sakuraーHPに載せておりますのでご覧くださいませ。

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