2009年11月18日 (水)

百人一首94番

Photo

み吉野の山の秋風小夜ふけて

     ふるさと寒く衣うつなり

     (新古今集巻五・秋下)

「吉野の山の秋風が吹きおろし、夜更けて古京である吉野の里は、寒々として衣を打つ音が聞こえてくることよ」

この歌は、み吉野の山の白雪つもるらし古里寒くなりまさるなり”(古今集・坂上是則)を本歌としている。 本歌の冬の寒さを秋の寒さに変えて、秋の夜寒を砧の音によって捉え、寒々とした感覚を聴覚的に把握している点が優れている。

 結び

  雅経は上洛後、後鳥羽院歌壇の中心として活動し「新古今集」撰修の為和歌所が設けられるとその寄人に任命、更に撰者に任命され「新古今和歌集」の撰歌作業に専念した。

 元久二年(1205年)「新古今集」は撰集完成。 撰者の撰び入れ歌は、藤原定家・家隆に次いで雅経は第三位であり、この撰集作業で果たした役割は大変大きいものであった。

 雅経は蹴鞠の家芸に優れていたほか、能書家であり又篳篥(ひちりき)の名手でもあった。

官歴は承久二年(1220年)参議に昇進、翌三年五十二歳で生涯を終えた。

  以上、この項終り。 次回は「前大僧正慈円(さきのだいそうじゃうじゑん)」の予定。

          解説者  牧 宏安

sakura-HP94番(参議雅常)

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篳篥(ひちりき)について、、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%B3%E7%AF%A5

篳篥(ひちりき)は、雅楽や、雅楽の流れを汲む近代に作られた神楽などで使う管楽器の1つ。吹き物。「大篳篥」と「小篳篥」の2種があり、一般には篳篥といえば「小篳篥」を指す。

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2009年11月 8日 (日)

百人一首 93番

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世の中は常にもがもな渚こぐあまのをぶねの綱手かなしも” (新勅撰集・巻八)

 「この世の中は永遠に変わらないものであってほしいものだ。 

この渚をこぐ漁夫の小舟の綱手を引いていく景色にしみじみと心が動かされることであるよ」鎌倉の海岸で経験した実景に触れての感動を詠んだもの。 作者の永遠を希求する心、自然の美しさを感ずる心、異質な二つの要素が一首としてうまくまとめられている。

 鎌倉右大臣に就いて

 実朝の歌・抜粋 

 詞書・箱根の山をうち出でてみれば波の寄る小島あり・・・

 景物を実体験としての歌  

 詞書・道のほとりに幼きわらはの母をたずねていたく泣くを・・・

 詞書・荒磯に波の寄るを見て詠める 

 詞書・またのとし二所へまいりたる時・・・ 

 詞書・走湯山参詣の時

 詞書・心の心を詠める

 結び

 鎌倉幕府は実朝の暗殺により、源家の血筋は断絶した。

実朝暗殺後、北条義時は京より九条頼経を将軍に迎えて幕政を断、武家政治の優位を確立執権政治の基礎を築いた。

頼朝の死後、二代・三代の将軍をめぐって、北条時政・義時親子と、頼朝に従って功労のあった豪族宿将たちとの間に起こった権力争いは凄惨なものであった。 源家に功のあった重臣たちを一族もろとも次々に滅ぼし、最後に将軍をも殺して権力を握った北条氏の権謀はまさに凄まじいものであった。

三代将軍実朝はその激しい渦の真っ只中にあり、実朝が武家でありながら京の文化にこころひかれ、遂に武家になりきれなかった事が、鎌倉幕府により否定され実朝抹殺の悲劇を招くこととなった。

その後義時の子、泰時は父の没後執権となり、御成敗式目の設定をはじめ、その治世には見るべきものがあり、公武双方から後代まで名政治家として評価された。

泰時以降鎌倉幕府は、北条一族が執権職として強力に推進していくことになる。

  実朝の悲劇を後世「太宰治」は、裏切られても平然として滅亡出きる理想の人物として実朝を描いている。 これは太宰がひそかに願い続けた自画像であったのかも知れない。

また「小林秀雄」は、実朝を陰惨な暗殺集団の上に乗っかった、無垢な詩人の孤独感に重点を置いて描いている。

実朝の人間像は、鎌倉の歴史と文化を背景として、これからも末長くその魅力を世の中の人々の心の中に生き続けていくことであろう。

 文中引用の参考資料

   「吾妻鏡」 鎌倉後期成立の史書五十二巻、鎌倉幕府の   公的な編纂と云われる。

   折口信夫・「短歌本質成立の時代」(全集第一巻)

   吉本隆明・「源実朝」(ちくま文庫)

   有吉 保・「鎌倉右大臣」(歴史読本)

   矢内原伊作・「源実朝」(雑誌太陽)

以上 この項 終り。解説者 牧 宏安

 sakura-HP 93番に詳しく解説が載っておりますのでご覧くださいませ。

最近あまりにも迷惑コメントが入りますのでコメント欄はすべて閉じさせていただきました。

何時もお越し頂き有難うございます。sakuraCid_000901c80a0a8246ae000201a8c0f_5

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2009年9月16日 (水)

百人一首 92番

Hyaku

讃岐の作風は武人の娘らしく筋の通った歌が多いが、全体に歌林苑風から新古今風への軌跡を示している。また、名歌として伝えられる ”世にふるは苦しきものを真木の屋に ~ ” の歌は、後世、宗祇の”世にふるも更に時雨の宿りかな”や、芭蕉の”世にふるも更に宗祇の宿りかな”に影響を与えた。

讃岐の歌風の特色には、中世風の隠逸への傾斜があったと思われ、いわば時代の先取りとしても注目されるものがある。
 以上、この項終り。 
            解説者  牧 宏安
           
   10月は「鎌倉右大臣(源実朝)
sakura-HP ←92番二条院讃岐

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2009年8月 6日 (木)

百人一首

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結び

 後京極摂政前太政大臣というのは藤原良経の事。
良経には漢詩文的な隠遁趣味があったようで、それが彼の和歌にも反映しているが、良経の歌に見られる美意識はかなり特色がはっきりして居り、清爽感が顕著で声調もそれにふさわしくまことにすっきりしている。
”あすよりは志賀の花園まれにだに誰かは訪はむ春のふるさと”
            (新古今集巻二・一七四)
 上記に認められるような寂滅に向かう艶麗さが良経の愛する世界であり、それは感傷と虚無との間を漂う魂なのであった。
     以上 この項終わり。 
    次回は九月、「二条院讃岐」 の予定。
               解説者  牧 宏安
(90番、91番と 同時アップ致しました)

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2009年6月17日 (水)

百人一首 式子内親王 その二

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結び 「新古今前後」-(前述・折口全集第十六巻)の論評より抜粋                     「式子内親王」の御歌には、当時の流行に従ってそれなりに優れたものがある。独特の静かな女らしく柔らかなものも沢山ある。歌の上だけでみると、素直なものを作られて居るので分らないがこの御方には少し御性格の変わられた所があるらしい。内親王は父帝(後白河天皇)からも愛せられて、大炊御門院という御殿を譲り受けて居られる。 つまり後院(ごいん)である。  以仁王も内親王の弟宮であらせられる。 関東方面と関係がおありになったのかも知れない。橘兼仲等の陰謀事件にも坐して居られて、どうも我々が歌の上で想像申し上げている御方とは違う。 京都に於ける政治上のの一つの勢力になって居られたらしい。文学上の才能と政治上のとは一つでないが、内親王の御歌に就いては、こういう鎌倉時代の事情を背景として見直す必要がありそうだ。 以上、この項 終り。

次回は「殷富門院大輔」「後京極摂政前太政大臣」の予定。

               解説者 牧 宏安
sakuraーHP 百人一首 式子内親王(その二)
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(一)「新古今前後」-折口信夫全集・
第八巻より六首
(二)「女流短歌史」-折口信夫全集・
第十一巻より二首
(三)「新古今和歌集」-折口信夫全集・
ノート編 第五巻より四首
沢山の歌の解説 興味深く読ませて頂きました。有難うございました。
牧先生 この度はHPの転送がうまくいかなくて折角早くに送信頂きましたのにブログに載せるのも大変遅くなりました。本当に申し訳ございませんでした。来月からは大丈夫だと思いますので、又よろしくお願い申し上げます。sakura(*^。^*)  
(申し訳ございませんがコメント欄は今回も閉じさせていただきます

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2009年3月25日 (水)

百人一首 88番皇嘉門院別当            89番式子内親王 

Hyak

第88番「皇嘉門院別当 」                                               (こうかもんいんのべっとう)
 ”難波江の芦の刈り根の一夜(ひとよ)ゆへ
                        みをつくしてや恋ひ渡るべき”
           (千載集・巻十三 恋三)
 「難波江の芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、ただ一夜の短い旅の仮寝のために、この身をささげ尽くしてひたすら恋い続けなければならないのでしょうか」
□ 皇嘉門院別当に就いて
  平安・鎌倉時代の歌人。 村上源氏、源俊隆の娘。 生没年未詳。
皇嘉門院(崇徳天皇皇后・藤原聖子)に仕えて この呼名がある。皇嘉門院に仕えていた女房に、近江・尾張・出雲などが居り、そのなかで皇嘉門院を冠せられる歌人としては、別当の他に出雲・治部卿がいるが、何れもすぐれた歌人とは云い難く、その中では比較的別当の詠歌が目立っている。
                  (この項 終り)
第89番 「式子内親王」 
      (しょくしないしんのう)
 ”玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
                        忍ぶる事の弱りもぞする”
          (新古今集・巻十一 恋一)
 「わがいのちよ、絶えるならば絶えてしまえ。恋心を忍んでいることが出きなくなって、人に知られてしまいそうだから」
定家が百人一首に撰んだ冒頭の一首は、心情の屈折感と文脈とが必ずしも融けあっているとは云い難く、代表作とするにはやや問題があるが、「玉の緒よ」の歌の激しさが、高貴な人の幻想的雰囲気の中に吸収、享受されている事を評価したのであろう。
          解説者 牧 宏安
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皇嘉門院別当は簡単な解説となっておりますが、式子内親王は内容が豊富なので次回四月に又引き継いで牧先生に解説をして頂きます。
”玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば
      忍ぶることの弱りもぞする”
この歌も私は大好きな歌です。                  内親王で斎院という身分の作者の立場を考えると、この歌のやるせない悲しさ、女心の美しい優しさが伺えます。
sakura-HP 88番と89番

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2009年2月 4日 (水)

百人一首「寂連法師」

Aki

第87番 「寂蓮法師(じゃくれんほふし)」
 ”村雨の露もまだひぬ真木の葉に
        霧立ちのぼる秋の夕暮れ”
            (新古今集巻五 秋下)
□ 寂連法師に就いて
父は藤原俊海、幼名を定長といった。 十二歳の時伯父藤原俊成の養子となったが、十年後俊成に実子定家が生まれそれを機会に俊成の元を離れ、二十三歳で出家寂連と名乗った。西行・定家と共に、所謂「三夕(さんせき)の歌」の歌人として有名であるが、「三夕の歌」として評価されたのは、百人一首に撰ばれた冒頭の歌ではない。 何れも新古今集に入集された以下の三首である。
  ① 寂連法師
    
”さびしさはその色としもなかりけり
        真木たつ山の秋の夕暮れ”
           (新古今集巻四 秋上)
    
   ② 西行法師
”こころなき身にも哀れはしられけり
        しぎたつ沢の秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
   ③ 藤原定家
”見わたせば花も紅葉もなかりけり
       浦のとまやの秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
    □ 結び
  出家した寂連は、多くの貴族・公家・歌人が住む京都の嵯峨に移り住んだ。そして美しい土地の自然を題材に多くの歌を詠んで過ごした。
  後鳥羽上皇は、予々歌人としての寂連を高く評価されていたが、ある日上皇の使者が寂連の庵を訪ね、この度当代一流の歌人(良経・慈円・定家・家隆など)十人に十首づつの歌を出してもらうことになり、寂連法師にもお願いすることになったので、との要請があった。
 寂連は、この上ない名誉と思い詠み上げた歌の中の一首が、冒頭の百人一首の歌である。
 秋の寂しさ、もの悲しさを詠んだ秀作とされ、歌合せでも大評判であったと伝えられている。
  以上でこの項終り。 次回は皇嘉門院別当の予定。
     解説者  牧 宏安
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娘時代、お正月にカルタ取りをしていた頃を思い出しました。 好きな歌の一つで、「村雨の、、」と聞こえたら”霧立ちのぼる秋の夕暮れ”を手元に置きパッとカルタを取ったものです。今の時代は あまりにも色々な遊びがありすぎてカルタ取りなどしなくなって残念なことだと思います。
今回の牧先生の解説が短いので、そのままアップさせていただきました。歌の訳は sakuraーHPに載せておりますのでご覧くださいませ。

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2009年1月 5日 (月)

百人一首  西行法師(その五)

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□ 前書き
西行法師の解説は、本年五月に始まったが、今回の講座でこの項を終了する。講義の締め括りとして、西行の歌の集大成「御裳濯河歌合(みもすそがはうたあわせ)」「宮河歌合(みやがはうたあわせ)」より、いくつかの秀作を撰び、この項の結びとしたい。
□ 結び
「御裳濯河歌合」(みもすそがはうたあわせ)は俊成の友情によって加判も早く完成したが、「宮河歌合」(みやがはうたあわせ)は定家の判詞が大幅に遅れて、西行が最後の病床にあった河内の弘川寺にやっと届けられた。
死の四か月前文治五年(1189年)十月のことであった。
そして翌春、二月十六日奇しくも若い頃から願っていた釈迦の涅槃の日に、西行は入滅したのである。
 五月から十二月まで、夏休みと講師の都合による二回の休講を除き、六回にわたった西行の生涯と歌の解説は、この項をもって終了する。次回は年明け、一月十八日、西行・定家と並ぶ「三夕(さんせき)」の一人、「寂蓮法師」の解説で開講する予定である。
          
                   解説者  牧 宏安
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十二月に牧先生より お送り頂いた西行法師最終の解説をやっと年を越してのアップとなりました。お正月になってやっと読ませて頂きブログに載せることが出来ました。歌合いは右と左に別れ 侍(引き分け)、勝。等と決められ、藤原俊成判詞の批評をここに少し載せておきます。
 左:持(引分け)
”願はくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ”(続古今集)
「願うことは、花の下で春にこそ死にたいものだ。あの釈迦入滅の二月十五日ころに」
右: ”来ん世には心の中にあらはさんあかでや見ぬる月の光を”(千載集)                                         「来世には心の中に現そう。 この世ではいくら見ても見飽きることのなかった月の光を」
判詞: 左歌の「花のもとにて」といい、右の歌の「来ん世には」と表現しているのは、ともに深い内容であって、それについて見ると右は概していえば、よい歌の姿である。左は「願はくは」と置いて「春死なん」と表現するのは、きちんとした姿ではない。ただこの歌の全体の姿としては、上句と下句が調和していて、すばらしく聞えるのである。そうかといって、和歌の道に深く入っていない人々は、このように詠もうとしたら、うまくいかないことがあるに違いない。またこの詠み方は和歌の道の深奥に到達した時のことである。左右の歌の姿は似ていないが、同じような水準と見て 持とする。
参考:左歌は、西行が文治六年(1190年)二月十六日に入寂した為、俊成、定家をはじめ、多くの人々に感銘を与えた。  ただし「山家集」に入っているから、安元元年(1176年)以前に詠ぜられたものである。 釈尊の涅槃(ねはん)を思い、それを渇仰しつつ春を重ねた、いかにも西行らしい歌である。右歌は清澄な月に関わらせて宗教的意志を表した歌である。
判者は、姿は似ていないが、ともに凡常の人には詠みえない心の深い歌として評価したのである。
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やはり何といっても「七番」の所が(引き分け)になっていて、判詞の批評などなかなか面白く読ませていただきましたので、ここに載せました。           詳しくはHP-sakuraをご覧くださいませ。                      
後期高齢にしては若いsakuraですが、、ホホ・・Cid_000701c91a04568fdd300201a8c0f_2 お越し頂き有難うございました。 
                

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2008年10月29日 (水)

百人一首  西行法師(その四)

Hyaku

☆☆ 西行法師 - (そのⅣ)
□ 前書き
  八月は恒例の夏休みであったが、九月は伊藤先生のご都合により休会となった為、二ヶ月ぶりでの開講となった。今月は西行の作品解説を中心に講義が進められた。私家集の「山家集」、自歌合の「御裳濯河歌合」「宮河歌合」など数多くの作品の解説なので、恐らく次回まで継続の見込みである。
□ 山家集より三首、
”松山の波に流れて来し舟の
       やがて空しくなりにけるかな”
”松山の波の景色は変わらじを
        形無く君はなりましにけり”
”よしや君昔の玉の床とても
      かからん後は何にかはせん”
□ 西行法師家集より (絶唱と云われる二首)
  ”年たけて又越ゆべしと思いきや
          命なりけり佐夜の中山”
”かぜになびく富士のけぶりの空に消えて
         行方も知らぬわが思いかな”
□ 折口信夫全集より抜粋
”吉野山さくらの枝に雪ちりて
          花遅げなる年にもあるかな”
                  (新古今集・春歌)
”吉野山やがて出でじと思ふ身を
           花散りなばと人や待つらむ”
                   (新古今集・雑歌)
”更けにけるわが世のかげを思ふまに
            はるかに月の傾きにけり”
□ 古今著聞集・巻十三より
  
「西行法師、釈迦入滅の日、往生せんと願うこと」
西行法師は当時から、釈迦入滅の日に、往生を遂げることを願って詠んで居られた。
  
”ねがはくは花のもとにて春しなむ
              そのきさらぎのもち月のころ”
  
返し:(一説には定家の詠とされる) 
 (山家集・続古今集)
”紫の色ときくにぞなぐさむる
             きえけむ雲は悲しけれども”
                   
                                      解説者  牧 宏安
sakura-HP ←クリック 西行法師(その四)
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10月の百人一首 解説を、早くに牧先生よりお送り頂きましたが、 やっと10月中に間に合いました。ここの所 色々な事が重なって レスができませんので今回はコメント欄を閉じさせていただきます。
尚、歌の訳は sakuraーHPに載っておりますのでご覧くださいませ。
  

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2008年7月14日 (月)

百人一首 86番 西行法師(その三)

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出家後の西行の足跡は、「古今著聞集」「井蛙抄」「吾妻鏡」「撰集抄」等の古文書の中にも辿ることが出きる。 

「百人一首一夕話(ひとよがたり)」では、その中からいくつか、西行の遁世放浪の旅の物語として取り上げ、語っている。

今月の百人一首は、西行の出家後の物語を、各古文書からの伝説・説話を中心に講義がありました。 歌の解説が少なくて物足りないかと思われますが、お読み下さい。
次回(八月は夏休みで、九月)は、西行の総まとめで、歌の解説が中心となりますのでご期待下さい。
          
                      解説者   牧 宏安
sakura-HP ←クリック 西行法師(その三)

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