2009年11月 8日 (日)

百人一首 93番

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世の中は常にもがもな渚こぐあまのをぶねの綱手かなしも” (新勅撰集・巻八)

 「この世の中は永遠に変わらないものであってほしいものだ。 

この渚をこぐ漁夫の小舟の綱手を引いていく景色にしみじみと心が動かされることであるよ」鎌倉の海岸で経験した実景に触れての感動を詠んだもの。 作者の永遠を希求する心、自然の美しさを感ずる心、異質な二つの要素が一首としてうまくまとめられている。

 鎌倉右大臣に就いて

 実朝の歌・抜粋 

 詞書・箱根の山をうち出でてみれば波の寄る小島あり・・・

 景物を実体験としての歌  

 詞書・道のほとりに幼きわらはの母をたずねていたく泣くを・・・

 詞書・荒磯に波の寄るを見て詠める 

 詞書・またのとし二所へまいりたる時・・・ 

 詞書・走湯山参詣の時

 詞書・心の心を詠める

 結び

 鎌倉幕府は実朝の暗殺により、源家の血筋は断絶した。

実朝暗殺後、北条義時は京より九条頼経を将軍に迎えて幕政を断、武家政治の優位を確立執権政治の基礎を築いた。

頼朝の死後、二代・三代の将軍をめぐって、北条時政・義時親子と、頼朝に従って功労のあった豪族宿将たちとの間に起こった権力争いは凄惨なものであった。 源家に功のあった重臣たちを一族もろとも次々に滅ぼし、最後に将軍をも殺して権力を握った北条氏の権謀はまさに凄まじいものであった。

三代将軍実朝はその激しい渦の真っ只中にあり、実朝が武家でありながら京の文化にこころひかれ、遂に武家になりきれなかった事が、鎌倉幕府により否定され実朝抹殺の悲劇を招くこととなった。

その後義時の子、泰時は父の没後執権となり、御成敗式目の設定をはじめ、その治世には見るべきものがあり、公武双方から後代まで名政治家として評価された。

泰時以降鎌倉幕府は、北条一族が執権職として強力に推進していくことになる。

  実朝の悲劇を後世「太宰治」は、裏切られても平然として滅亡出きる理想の人物として実朝を描いている。 これは太宰がひそかに願い続けた自画像であったのかも知れない。

また「小林秀雄」は、実朝を陰惨な暗殺集団の上に乗っかった、無垢な詩人の孤独感に重点を置いて描いている。

実朝の人間像は、鎌倉の歴史と文化を背景として、これからも末長くその魅力を世の中の人々の心の中に生き続けていくことであろう。

 文中引用の参考資料

   「吾妻鏡」 鎌倉後期成立の史書五十二巻、鎌倉幕府の   公的な編纂と云われる。

   折口信夫・「短歌本質成立の時代」(全集第一巻)

   吉本隆明・「源実朝」(ちくま文庫)

   有吉 保・「鎌倉右大臣」(歴史読本)

   矢内原伊作・「源実朝」(雑誌太陽)

以上 この項 終り。解説者 牧 宏安

 sakura-HP 93番に詳しく解説が載っておりますのでご覧くださいませ。

最近あまりにも迷惑コメントが入りますのでコメント欄はすべて閉じさせていただきました。

何時もお越し頂き有難うございます。sakuraCid_000901c80a0a8246ae000201a8c0f_5

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2009年9月16日 (水)

百人一首 92番

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讃岐の作風は武人の娘らしく筋の通った歌が多いが、全体に歌林苑風から新古今風への軌跡を示している。また、名歌として伝えられる ”世にふるは苦しきものを真木の屋に ~ ” の歌は、後世、宗祇の”世にふるも更に時雨の宿りかな”や、芭蕉の”世にふるも更に宗祇の宿りかな”に影響を与えた。

讃岐の歌風の特色には、中世風の隠逸への傾斜があったと思われ、いわば時代の先取りとしても注目されるものがある。
 以上、この項終り。 
            解説者  牧 宏安
           
   10月は「鎌倉右大臣(源実朝)
sakura-HP ←92番二条院讃岐

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2009年8月 6日 (木)

百人一首

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結び

 後京極摂政前太政大臣というのは藤原良経の事。
良経には漢詩文的な隠遁趣味があったようで、それが彼の和歌にも反映しているが、良経の歌に見られる美意識はかなり特色がはっきりして居り、清爽感が顕著で声調もそれにふさわしくまことにすっきりしている。
”あすよりは志賀の花園まれにだに誰かは訪はむ春のふるさと”
            (新古今集巻二・一七四)
 上記に認められるような寂滅に向かう艶麗さが良経の愛する世界であり、それは感傷と虚無との間を漂う魂なのであった。
     以上 この項終わり。 
    次回は九月、「二条院讃岐」 の予定。
               解説者  牧 宏安
(90番、91番と 同時アップ致しました)

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2009年6月17日 (水)

百人一首 式子内親王 その二

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結び 「新古今前後」-(前述・折口全集第十六巻)の論評より抜粋                     「式子内親王」の御歌には、当時の流行に従ってそれなりに優れたものがある。独特の静かな女らしく柔らかなものも沢山ある。歌の上だけでみると、素直なものを作られて居るので分らないがこの御方には少し御性格の変わられた所があるらしい。内親王は父帝(後白河天皇)からも愛せられて、大炊御門院という御殿を譲り受けて居られる。 つまり後院(ごいん)である。  以仁王も内親王の弟宮であらせられる。 関東方面と関係がおありになったのかも知れない。橘兼仲等の陰謀事件にも坐して居られて、どうも我々が歌の上で想像申し上げている御方とは違う。 京都に於ける政治上のの一つの勢力になって居られたらしい。文学上の才能と政治上のとは一つでないが、内親王の御歌に就いては、こういう鎌倉時代の事情を背景として見直す必要がありそうだ。 以上、この項 終り。

次回は「殷富門院大輔」「後京極摂政前太政大臣」の予定。

               解説者 牧 宏安
sakuraーHP 百人一首 式子内親王(その二)
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(一)「新古今前後」-折口信夫全集・
第八巻より六首
(二)「女流短歌史」-折口信夫全集・
第十一巻より二首
(三)「新古今和歌集」-折口信夫全集・
ノート編 第五巻より四首
沢山の歌の解説 興味深く読ませて頂きました。有難うございました。
牧先生 この度はHPの転送がうまくいかなくて折角早くに送信頂きましたのにブログに載せるのも大変遅くなりました。本当に申し訳ございませんでした。来月からは大丈夫だと思いますので、又よろしくお願い申し上げます。sakura(*^。^*)  
(申し訳ございませんがコメント欄は今回も閉じさせていただきます

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2009年3月25日 (水)

百人一首 88番皇嘉門院別当            89番式子内親王 

Hyak

第88番「皇嘉門院別当 」                                               (こうかもんいんのべっとう)
 ”難波江の芦の刈り根の一夜(ひとよ)ゆへ
                        みをつくしてや恋ひ渡るべき”
           (千載集・巻十三 恋三)
 「難波江の芦の刈り根の一節(ひとよ)ではないが、ただ一夜の短い旅の仮寝のために、この身をささげ尽くしてひたすら恋い続けなければならないのでしょうか」
□ 皇嘉門院別当に就いて
  平安・鎌倉時代の歌人。 村上源氏、源俊隆の娘。 生没年未詳。
皇嘉門院(崇徳天皇皇后・藤原聖子)に仕えて この呼名がある。皇嘉門院に仕えていた女房に、近江・尾張・出雲などが居り、そのなかで皇嘉門院を冠せられる歌人としては、別当の他に出雲・治部卿がいるが、何れもすぐれた歌人とは云い難く、その中では比較的別当の詠歌が目立っている。
                  (この項 終り)
第89番 「式子内親王」 
      (しょくしないしんのう)
 ”玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
                        忍ぶる事の弱りもぞする”
          (新古今集・巻十一 恋一)
 「わがいのちよ、絶えるならば絶えてしまえ。恋心を忍んでいることが出きなくなって、人に知られてしまいそうだから」
定家が百人一首に撰んだ冒頭の一首は、心情の屈折感と文脈とが必ずしも融けあっているとは云い難く、代表作とするにはやや問題があるが、「玉の緒よ」の歌の激しさが、高貴な人の幻想的雰囲気の中に吸収、享受されている事を評価したのであろう。
          解説者 牧 宏安
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
皇嘉門院別当は簡単な解説となっておりますが、式子内親王は内容が豊富なので次回四月に又引き継いで牧先生に解説をして頂きます。
”玉の緒よ絶えなば絶えね長らえば
      忍ぶることの弱りもぞする”
この歌も私は大好きな歌です。                  内親王で斎院という身分の作者の立場を考えると、この歌のやるせない悲しさ、女心の美しい優しさが伺えます。
sakura-HP 88番と89番

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2009年2月 4日 (水)

百人一首「寂連法師」

Aki

第87番 「寂蓮法師(じゃくれんほふし)」
 ”村雨の露もまだひぬ真木の葉に
        霧立ちのぼる秋の夕暮れ”
            (新古今集巻五 秋下)
□ 寂連法師に就いて
父は藤原俊海、幼名を定長といった。 十二歳の時伯父藤原俊成の養子となったが、十年後俊成に実子定家が生まれそれを機会に俊成の元を離れ、二十三歳で出家寂連と名乗った。西行・定家と共に、所謂「三夕(さんせき)の歌」の歌人として有名であるが、「三夕の歌」として評価されたのは、百人一首に撰ばれた冒頭の歌ではない。 何れも新古今集に入集された以下の三首である。
  ① 寂連法師
    
”さびしさはその色としもなかりけり
        真木たつ山の秋の夕暮れ”
           (新古今集巻四 秋上)
    
   ② 西行法師
”こころなき身にも哀れはしられけり
        しぎたつ沢の秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
   ③ 藤原定家
”見わたせば花も紅葉もなかりけり
       浦のとまやの秋の夕暮れ”
            (新古今集巻四 秋上)
    □ 結び
  出家した寂連は、多くの貴族・公家・歌人が住む京都の嵯峨に移り住んだ。そして美しい土地の自然を題材に多くの歌を詠んで過ごした。
  後鳥羽上皇は、予々歌人としての寂連を高く評価されていたが、ある日上皇の使者が寂連の庵を訪ね、この度当代一流の歌人(良経・慈円・定家・家隆など)十人に十首づつの歌を出してもらうことになり、寂連法師にもお願いすることになったので、との要請があった。
 寂連は、この上ない名誉と思い詠み上げた歌の中の一首が、冒頭の百人一首の歌である。
 秋の寂しさ、もの悲しさを詠んだ秀作とされ、歌合せでも大評判であったと伝えられている。
  以上でこの項終り。 次回は皇嘉門院別当の予定。
     解説者  牧 宏安
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娘時代、お正月にカルタ取りをしていた頃を思い出しました。 好きな歌の一つで、「村雨の、、」と聞こえたら”霧立ちのぼる秋の夕暮れ”を手元に置きパッとカルタを取ったものです。今の時代は あまりにも色々な遊びがありすぎてカルタ取りなどしなくなって残念なことだと思います。
今回の牧先生の解説が短いので、そのままアップさせていただきました。歌の訳は sakuraーHPに載せておりますのでご覧くださいませ。

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2009年1月 5日 (月)

百人一首  西行法師(その五)

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□ 前書き
西行法師の解説は、本年五月に始まったが、今回の講座でこの項を終了する。講義の締め括りとして、西行の歌の集大成「御裳濯河歌合(みもすそがはうたあわせ)」「宮河歌合(みやがはうたあわせ)」より、いくつかの秀作を撰び、この項の結びとしたい。
□ 結び
「御裳濯河歌合」(みもすそがはうたあわせ)は俊成の友情によって加判も早く完成したが、「宮河歌合」(みやがはうたあわせ)は定家の判詞が大幅に遅れて、西行が最後の病床にあった河内の弘川寺にやっと届けられた。
死の四か月前文治五年(1189年)十月のことであった。
そして翌春、二月十六日奇しくも若い頃から願っていた釈迦の涅槃の日に、西行は入滅したのである。
 五月から十二月まで、夏休みと講師の都合による二回の休講を除き、六回にわたった西行の生涯と歌の解説は、この項をもって終了する。次回は年明け、一月十八日、西行・定家と並ぶ「三夕(さんせき)」の一人、「寂蓮法師」の解説で開講する予定である。
          
                   解説者  牧 宏安
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十二月に牧先生より お送り頂いた西行法師最終の解説をやっと年を越してのアップとなりました。お正月になってやっと読ませて頂きブログに載せることが出来ました。歌合いは右と左に別れ 侍(引き分け)、勝。等と決められ、藤原俊成判詞の批評をここに少し載せておきます。
 左:持(引分け)
”願はくは花のもとにて春死なんそのきさらぎの望月のころ”(続古今集)
「願うことは、花の下で春にこそ死にたいものだ。あの釈迦入滅の二月十五日ころに」
右: ”来ん世には心の中にあらはさんあかでや見ぬる月の光を”(千載集)                                         「来世には心の中に現そう。 この世ではいくら見ても見飽きることのなかった月の光を」
判詞: 左歌の「花のもとにて」といい、右の歌の「来ん世には」と表現しているのは、ともに深い内容であって、それについて見ると右は概していえば、よい歌の姿である。左は「願はくは」と置いて「春死なん」と表現するのは、きちんとした姿ではない。ただこの歌の全体の姿としては、上句と下句が調和していて、すばらしく聞えるのである。そうかといって、和歌の道に深く入っていない人々は、このように詠もうとしたら、うまくいかないことがあるに違いない。またこの詠み方は和歌の道の深奥に到達した時のことである。左右の歌の姿は似ていないが、同じような水準と見て 持とする。
参考:左歌は、西行が文治六年(1190年)二月十六日に入寂した為、俊成、定家をはじめ、多くの人々に感銘を与えた。  ただし「山家集」に入っているから、安元元年(1176年)以前に詠ぜられたものである。 釈尊の涅槃(ねはん)を思い、それを渇仰しつつ春を重ねた、いかにも西行らしい歌である。右歌は清澄な月に関わらせて宗教的意志を表した歌である。
判者は、姿は似ていないが、ともに凡常の人には詠みえない心の深い歌として評価したのである。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
やはり何といっても「七番」の所が(引き分け)になっていて、判詞の批評などなかなか面白く読ませていただきましたので、ここに載せました。           詳しくはHP-sakuraをご覧くださいませ。                      
後期高齢にしては若いsakuraですが、、ホホ・・Cid_000701c91a04568fdd300201a8c0f_2 お越し頂き有難うございました。 
                

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2008年10月29日 (水)

百人一首  西行法師(その四)

Hyaku

☆☆ 西行法師 - (そのⅣ)
□ 前書き
  八月は恒例の夏休みであったが、九月は伊藤先生のご都合により休会となった為、二ヶ月ぶりでの開講となった。今月は西行の作品解説を中心に講義が進められた。私家集の「山家集」、自歌合の「御裳濯河歌合」「宮河歌合」など数多くの作品の解説なので、恐らく次回まで継続の見込みである。
□ 山家集より三首、
”松山の波に流れて来し舟の
       やがて空しくなりにけるかな”
”松山の波の景色は変わらじを
        形無く君はなりましにけり”
”よしや君昔の玉の床とても
      かからん後は何にかはせん”
□ 西行法師家集より (絶唱と云われる二首)
  ”年たけて又越ゆべしと思いきや
          命なりけり佐夜の中山”
”かぜになびく富士のけぶりの空に消えて
         行方も知らぬわが思いかな”
□ 折口信夫全集より抜粋
”吉野山さくらの枝に雪ちりて
          花遅げなる年にもあるかな”
                  (新古今集・春歌)
”吉野山やがて出でじと思ふ身を
           花散りなばと人や待つらむ”
                   (新古今集・雑歌)
”更けにけるわが世のかげを思ふまに
            はるかに月の傾きにけり”
□ 古今著聞集・巻十三より
  
「西行法師、釈迦入滅の日、往生せんと願うこと」
西行法師は当時から、釈迦入滅の日に、往生を遂げることを願って詠んで居られた。
  
”ねがはくは花のもとにて春しなむ
              そのきさらぎのもち月のころ”
  
返し:(一説には定家の詠とされる) 
 (山家集・続古今集)
”紫の色ときくにぞなぐさむる
             きえけむ雲は悲しけれども”
                   
                                      解説者  牧 宏安
sakura-HP ←クリック 西行法師(その四)
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10月の百人一首 解説を、早くに牧先生よりお送り頂きましたが、 やっと10月中に間に合いました。ここの所 色々な事が重なって レスができませんので今回はコメント欄を閉じさせていただきます。
尚、歌の訳は sakuraーHPに載っておりますのでご覧くださいませ。
  

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2008年7月14日 (月)

百人一首 86番 西行法師(その三)

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出家後の西行の足跡は、「古今著聞集」「井蛙抄」「吾妻鏡」「撰集抄」等の古文書の中にも辿ることが出きる。 

「百人一首一夕話(ひとよがたり)」では、その中からいくつか、西行の遁世放浪の旅の物語として取り上げ、語っている。

今月の百人一首は、西行の出家後の物語を、各古文書からの伝説・説話を中心に講義がありました。 歌の解説が少なくて物足りないかと思われますが、お読み下さい。
次回(八月は夏休みで、九月)は、西行の総まとめで、歌の解説が中心となりますのでご期待下さい。
          
                      解説者   牧 宏安
sakura-HP ←クリック 西行法師(その三)

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2008年6月12日 (木)

百人一首 

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西行遍歴の跡 - (「山家集」より

出家後の西行の各地遍歴の様子は、西行の家集「山家集」によって辿ることが出きる。「山家集」は西行が自撰して藤原俊成に見せたのではないかといわれて居り、上・中・下三巻の構成で、上巻は四季、中巻は恋・雑、下巻は恋百首・旅・雑等で構成されている。  古来の隠者的思想につながる山里の草庵に、孤独の寂寥と相対し、割り切れない心の旅を遍歴する西行。  花と月に注ぐ愛情の深さは格別だが、自然の風物を詠じてもそこに常に自分を語り続ける。 そういう西行の実感に根ざした、飾り気のない私的抒情の自在さと独自性が、世に長く評価されているのである。    

                   解説者  牧 宏安

sakura-HP ←西行法師そのⅡ

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2008年5月21日 (水)

百人一首 86番

Hyak

”歎けとて月やは物を思はする
            かこち顔なる我が涙かな”
       (千載集・恋五)
「歎きなさいといって月が私に物思いをさせるのであろうか。 いや決してそうではなく、かなわぬ恋の思いのためであるのに、まるで月が物思いをさせるかのように、流れる私の涙であることよ」  百人一首講座のテキスト「百人一首一夕話(ひとよがたり)」では、西行出家の事情、陸奥・四国など各地への旅の様子、そして西行の死に至る経緯などが詳しく述べられている。
 然し歌人としての西行の一生を辿るには、鎌倉時代に成立した「西行物語」に拠ることが最も適切と思われるので、今回は「西行物語」を中心に西行の一生と歌の解説をすすめていきたい。
■西行物語                                    (桑原博史全訳注・講談社学術文庫より)
一、 まえがき
 男女老若を問わず日本人にとって、西行ほど心をひかれる古人はいない。兼好や芭蕉は、あまりに人間として完成度が高いが、自分の感情のゆれ動きに忠実な西行は、その和歌作品自体に人間性が豊かににじんでいるからである。然し彼に冠せられた隠者という呼び方は、枯れた人間の印象を与えすぎる。 彼は隠者というより、文芸と宗教の二つの精神世界に生きる魂の放浪者であった。鎌倉時代に成立した「西行物語」には、そういう彼の姿が書かれている。    
                                    解説者  牧 宏安
sakura-HP 第86番『西行法師』←クリック

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2008年4月24日 (木)

百人一首 85番

Hyaku

”夜もすがら物思ふ頃は明けやらぬ
閨(ねや)のひまさへつれなかりけり”
          (千載集巻十二・恋二)
「夜通しつれない人を思い続けてつらい思いをしている頃は、早く明ければよいと思うのに、なかなか夜が明けようとしない寝屋の戸の、白んでこない隙間までが無情に思われることだよ」
歌合の歌なので、通ってこぬ薄情な男を恨む女の立場で詠んだと考えられる。
□ 結び
  俊恵の歌は千百首ほど判明しているが、歌風はみずからの主張する如く、いずれも平明素白穏やかな表現に詞がよく調和している。
俊恵の自讃歌は
”み吉野の山かきくもり雪ふれば
             麓の里はうちしぐれつつ ”
        (新古今集・巻六)  とされている。
 俊恵の没年は未詳であるが、建久六年(1195年)をあまり隔たらぬ以前に没したと思われる。いわゆる「新古今風」という新しい風体(ふうてい)は、俊恵晩年の建久頃に始まるが、新風の発展にともない「歌林苑」の穏やかな詠風は、次第に旧派化していった。然し「歌林苑」に於ける文学結社の活動・歌風は、「新古今風」の形成と無関係ではなく、とりわけ新古今以後の歌壇では、俊恵一派の「よみぶり」が認識されて、少なからぬ影響を
与えたことは注目されている。
  次回講座は『西行法師』の予定。
                     解説者  牧 宏安                 
---***---***ーーー
sakura-HP 第85番 俊恵法師

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2008年3月16日 (日)

三月 百人一首

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□ 結び (折口信夫・「六条家の人々」より抜粋)
      
      --- 前略 ---
 
 六条家が歌道の師範家としての実を示してきたのは、俊成に始まる御子左家などよりも早かった。六条家が次第にそういう実を持ってきたのは、平安朝もまだそう末にならぬうちであった。 
 歌壇に於ける歌人の指導的位置をきめるものは、作品だけではなかった。
 歌人は歌の学問、歌についての知識をもっていなくては、歌人として許されなかった。
何故かというと、当時は歌合が文壇を形造っていたからである。
歌を文壇に移して考えてみると、そこには歌合が大きく渦を巻いている。
歌人は左右に別れて歌の優劣を争い、更に判者はその優劣を定め判詞を与える。
それに対して反駁し、非難するものが出る。そうした文壇で特に指導者の立場に立って行く為には、勢い作品の力だけでなく学問が必要であった。つまり当時はすべて歌合で結着がついたのであった。
  こういう状態の文壇で、歌学と作品によって地盤を固めて、所謂六条家の基礎を築いたのは、平安朝末期に出た藤原修理大夫顕季という人であった。
所謂「人麻呂影供」ということを始めたのはこの人である。
人麻呂の画像を飾り、その祭りをするのであるが、それは人麻呂という古の歌の聖を、主となって祭るだけの資格が、この人にあるということを世間が認めていたということになる訳だ。
或いは影供を行うことに政略的な意味合いがあって、それによってそういう位置なり資格なりを認めさせようとしたのかも知れない。結果から見れば、人麻呂影供は六条家が主宰することになり、その為に又この家が歌道に於いて重い家となってきたのである。
 
--- 後略 ---     この項終わり
補足 
六条家と御子左家の歌の道での争いは、最終的には御子左家が残り現在の冷泉家につながるのですが、折口先生は歌学に貢献した六条家を高く評価されていたようです。  以上
                       
               解説者    牧 宏安
sakura-HP  ←第84番「藤原清輔朝臣」

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2008年3月 2日 (日)

二月 百人一首

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俊成の歌 (続)

① 古今著問集より

②正徹物語(歌論集)より

③建礼門院右京大夫集より

  結び (俊成の歌が定家に選定された謎)

百人一首の撰者定家は、父俊成の数多くの作品の中から何故二十七歳の時の作、

”世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる”を選んだのであろうか。 下の句に詠み込まれた鹿の悲しげな鳴声は、逃れる道を失った深い嘆きと強い絶望感を哀感深く捉えて居り、平安末期の世相の不安、あるいは無常思想が俊成の心に深く浸透していたことを伺わせる。 

俊成は、”夕されば野辺の秋風身にしみて鶉(うずら)鳴くなり深草の里”を自賛歌として居り、俊成の意識に即して代表歌を選ぶとすれば、この歌が最適ということになるが、定家が ”世の中よ~ ” の一首を選んだところに、定家独自の把握を見ることが出きるのではなかろうか。

俊成は十代の末頃から鳥羽院近臣の常盤為忠家の歌壇に参加し、詠作活動に入った。その間、源三位頼政や為忠の三人の男(為業・為経・頼業)との交友が始まり、また為忠女との間に四人の子女を設けた。 そしてやがて生涯の伴侶との出逢い場ともなっていったのである。

 為経の妻(加賀)は、夫為経の出家後、俊成と再婚して二男六女を設けたが、特に成家・定家の兄弟が俊成の歌道、歌学を受け継いでいったことが、御子左家の後々までの繁栄につながったことは間違いないことである。
 俊成が定家の母に対し、妻の兄嫁であった頃から強い思いを抱き、またその思いは決してかなえられないとの絶望感が、二十七歳の俊成の詠作につながったと考えると、自ずと歌の捉え方も変わってくるであろう。
 定家の亡き母への思いと、若き日の父俊成の母への思いとが重ね合わされ、それが選定の大きな動機となったと考えるのは、いささか考え過ぎだろうか。
              解説者  牧 宏安
 
sakura-HP ←第84番「皇太后宮大夫俊成」
ーそのⅡ

人間関係が分りにくいと思いますが、少し解説を付け加えます。
当時の婚姻は一夫多妻が通常のことで、俊成も四人の女性との間に十七人の子女を設けていました。
俊成は十代の頃、常盤為忠家の歌壇に出入りし、為忠の娘との間に四人の子女が出きましたが、そこで出逢ったのがのちに俊成生涯の妻となる、為忠の息子為経の妻(美福門院加賀)でした。 
当時二十代の俊成は、妻の兄嫁に強い思慕の情を抱き、その気持が歌に表現されたのではないかと推測されるのです。
妻がありながら妻の兄嫁への思いきれない悩みと、その思いがかなえられない絶望感とが、この歌に表されたのではないでしょうか。為経の出家後、俊成と再婚した加賀との間にやがて定家が生まれる訳ですが、恐らく定家は父の若き頃の母への思いに気付き、この歌の百人一首選定に結びついたのではないかと思うのです。でもこれは当方の勝手な解釈です。牧 宏安

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2008年1月29日 (火)

百人一首 第83番

Hyaku_3

『皇太后宮大夫俊成』

”世の中よ道こそなけれ思ひ入る
         山の奥にも鹿ぞ鳴くなる”
           (千載集・雑中)
「この世は、遁れたいと思ってもどこにも道は無いことだ。 思い悩んだ末に心を決めて世を捨てて踏み入った山の奥にも、妻恋う鹿が悲しげに鳴いているようだ」
逡巡の末にやっと遁世の決意をして入った山中、然しそこにも哀怨極まりない鹿の鳴声がある。 余韻嫋々の寂寥の中で、出家しきれぬ自分を見出して断念するが、戻っていく俗世の前途に曙光が見出せるわけではなく、どこにも行き場のない深い嘆息、述懐歌の典型である。
 俊成二十七歳の時の作歌。

平安から鎌倉へ一世紀近い大きな変革の時代を、俊成は歌道・歌学の文化を守り育て、次代に受け継いでいった。藤原氏は千年の長きにわたって、多くの文化を現代まで継承してきた。 権力者の交代があっても、常に朝廷を中心として時代を乗り切ってきた平安貴族のしぶとさが、それを可能にしたものであろう。  俊成の生涯は、その象徴とも言えよう。

次回は俊成と対峙する、六条藤原清輔をからめての講座となる予定。
        
      解説者   牧 宏安
sakuraーHP 第83回『皇太后宮大夫俊成』

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2007年11月16日 (金)

百人一首 道因法師

Hyaku82

百人一首の撰者藤原定家は、父俊成ほど道因の歌を評価していなかったようであり、百人秀歌(百人一首の前身)の中にも道因の歌は全く見られず、何故百人一首に撰歌されたのか、いろいろ疑問は残っている。      恐らく没後、俊成の夢に現れたり、数々の逸話の多い好士であったことから、百人の中に加えられたものではなかろうかと推測される。

            解説者  牧 広安

sakura-HP  第82番『道因法師』

                        

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2007年10月14日 (日)

百人一首 (藤原 実定)

Hyaku

堂上家の摂家に次ぐ家格の清華家の流れに生まれた実定は、何れ大臣・大将に就くのは当然ことゝ自負していた。 にも拘らず折しも平家の全盛期に遭遇し、実定の昇進願望は必ずしも満たされることがなく、その不遇期間を和歌の道に没入することになった。結果として「歌仙落書」に絶賛されるような作品の数々を生むことになったが、実定の人となりの俗人的な側面を「古今著聞集」「源平盛衰記」が、歌人としての優れた面を「平家物語」が、夫々逸話、説話として取り上げたものと思われる。

          解説者  牧 広安

sakuraーHP ←御徳大寺左大臣 そのⅡ

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2007年9月15日 (土)

百人一首

Hyaku

「ほととぎすが今鳴いた方を眺めると、いつか夜が
しらじらと明けかかって、有明けの月だけが残っているだけだ」
 ほととぎすの一声を待ち続けるうちに、短い夏の夜はもう明けようとしている。と、確かにその声と聞きつけ眼で追うがその姿はなく、光を失いかけた有明けの月だけが山の端に残っている。
 しみじみとした哀感の余韻が心地よい歌である。              百人一首の中でたった一首ほととぎすを歌った歌。              逸話の多い作者が親しまれていたこともあってか、              百首の中ではどういうわけか人気がある。
                解説者  牧 宏安
sakura-HP ←81番が今月の御徳大寺佐大臣です

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2007年7月26日 (木)

百人一首

何時もご訪問頂きありがとうございます。

百人一首をアップ致しまして 明日から息子家族が居るタイのバンコクへ主人と出かけます。

当分 レスが出来ませんが又のお越しをお待ち申し上げておりす。

Hyaku_2

『待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)』

”長からむ心も知らず黒髪の
    乱れて今朝はものをこそ思へ”
             (千載集巻十三・恋歌)
「末長く変らないお心かも知れないけれど、
お逢いして別れた今朝は、寝乱れた黒髪のように
心が千々に乱れて深く思い悩んで居ります」
 後朝の歌、初めて許した翌朝の女心の愛と不安の
 錯綜を、官能的な寝乱れ髪に象徴させている。  
           解説者  牧 宏安

sakura-HP ←百人一首

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2007年6月20日 (水)

第79番 百人一首

Hyaku_20 「秋風に吹かれてたなびいている雲の切れ間から、     もれ出てくる月の光の何と明るくも澄み切っている事であろう」

秋の夜、秋の月の華麗な美しさを詠んだ歌。訳する事もないほど平明ですっきりしている。流麗で爽やかであり余情豊かな歌。月を主題とした代表的な作品である。   解説者   牧 宏安

sakuraーHP  ←第79番 左京大夫顕輔

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2007年5月 9日 (水)

百人一首 源 兼昌

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「須磨の浦から淡路島へと行きかえりする千鳥の哀れに悲しげな鳴き声に、幾夜目をさましてしまったことだろうか、須磨の関守は」

冬の夜の情緒を、具体的な須磨の浦の関所の光景を設定して表現しようとしている。 千鳥の哀切な鳴き声と淡路島を配して、冬の夜に目ざめている関守の孤独を詠み上げ、旅人の旅愁をもただよわせている。

      解説者 牧 宏安

sakura-HP 百人一首 源 兼昌

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2007年4月18日 (水)

百人一首 崇徳院 そのⅢ

Sutokuinnjpg 

今月の百人一首は、「崇徳院」そのⅢでした。 

講義は「保元物語」の中の、新院(崇徳)側の

武将源為義一家が

戦いに敗れ、幼い子供達がすべて打ち首になる

悲劇の場面を、

伊藤先生が朗読することによって始められました。 

先生はこの場面を読むといつも涙無くして読むことが

出きなかったので、その触りを是非聞いてもらいたいと

いうことで始められました。

                  解説者  牧 宏安

HP-sakura 百人一首 崇徳院そのⅢ 

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2007年3月18日 (日)

百人一首 崇徳院 (その二)

Haru 歌人としての崇徳院

 崇徳院は幼い時から和歌を愛好され、隠題や紙燭の歌などで技巧と速修の 修練をつみ、うちうちの歌会を重ねやがて内裏で本格的な歌会を催されるように なったことが、春の調の中で述べられている。

崇徳天皇の和歌 (春の調・九十五)

日常の帝の御歌などはしばしば耳にいたしましたが、  めったにないほどすぐれた 御歌をたくさん耳にいたしました。 「遠く山を尋ね」ということを

  ”たずねつる花のあたりになりにけり

             匂ふにしるし春の山風”

                 (千載集・春上)

  「さがし求めてきた桜の花の咲くあたりにやって来たのだなあ。匂いによって はっきりそれと知られることだ。 この春の山風よ」

などとお詠みになりました歌は、「後世にはあまりないほどすぐれている」と人が 申して居りました。 

  まだ御幼少でいらっしゃったとき

  ”ここをこそ雲の上とは思ひつれ

          高くも月の澄みのぼるかな”

                (続古今集・秋上)

  「まさにここ宮中を一番高い雲の上とは思っていたが、それよりも高く月は澄んで昇っていることだなあ」 などとお詠みになったころから、このような御歌ばかりがたくさんあるということです。 これらの歌は、たまたま人伝に耳にいたしたのです。(この続はホームページをご覧下さい。)

                解説者  牧 宏安

sakuraーHP ←崇徳院 その二

ある大学教授から『崇徳院』といえば百人一首よりも   落語が先に浮かぶと、聞きましたので私は落語に出てくる崇徳院を知りたくてブログの  落語好きさんの          (梟通信~ホンの戯言)にお聞き致しました所 早速お返事を頂きました。ご興味のある方は此方もどうぞご覧下さいませ。

http://senjiyose.cocolog-nifty.com/fullface/2005/05/post_8a4b.html

崇徳院の落語の話  (*^m^)プッ・・・ふふふ・・

http://www.honcho-matsudo.com/back-sakura.htm

これは「散歩好きの近所さん」は自治会長で本町自治会と言うHPを管理しています。其処に投稿した一つが「桜」です。30年間、毎年している日暮里小石川植物園浅草向島を歩く7時間に渡る散歩を書いた物です。(散歩好き)

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2007年2月24日 (土)

百人一首 第77番

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今回の百人一首は歌の解説より、おどろおどろした物語のまとめに四苦八苦です。 皇室内での不義密通の話や、摂関家内での親子兄弟の争い等、ややっこしい話ばかりで困りました。作家だったら、もってこいの題材でしょうが,戦前なら口にも出きない不敬罪になりそうなお話が、昔の古典にはちゃんと載っています。日本文化の素晴らしさを、変なところで痛感しました。                                                        解説者   牧 宏安  

sakuraーHP 第77番です。      

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2007年1月31日 (水)

第四十六回 百人一首

Hyakujpg 崇徳上皇の保延元年(1135年)四月内裏歌合での 

題詠歌。雄大な光景をのびのびとした声調で詠出して

居り、当時のものとしては新鮮味が感じられる。

     解説者   牧 宏安

sakura-HP 百人一首の四十六回です。

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2006年12月18日 (月)

十二月 百人一首

Hyaku_5

共に平安朝後期の代表的歌人であるが、その歌風には大きな違いがあった。古代歌学を基として伝統を重視する基俊の歌風に対して、俊頼は題材用語など自由で斬新な表現を駆使した当代風の歌人であった。何れも名家の出でありながら、官人としては不遇で専ら歌の道に専念した。共に院政期歌壇の指導者として活躍したが、二人は親しい友でもありながらその性格思想の違いは、無名抄(鴨長明著、歌論集)にもそのエピソードが述べられている。  解説者  牧 宏安

sakuraーHP 此処をクリックして

百人一首 第四十五回をご覧下さいませ。

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2006年11月29日 (水)

第四十四回 百人一首

Photo_2 今回の藤原基俊の歌は、約束が果たされなかったことを嘆き訴えた歌で、親の悲嘆と愛情が    切実に出ています。       解説者 牧 宏安

sakuraーHP ←此処をクリックして

百人一首 第四十四回をご覧下さいませ。

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2006年10月25日 (水)

第四十三回  百人一首

Hyaku_4 十月の百人一首です。  詞書によれば権中納言俊忠〔藤原定家の祖父〕家で歌会が 催された時の      恋十首の中の一首。

祈っても成就しがたい恋の辛さを、初瀬の山おろしに向かって嘆き、観音に訴えた。

sakuraーHP 此処をクリックしてください。

百人一首の第四十三回です。

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2006年9月22日 (金)

九月 百人一首講座

Hyaku_ 解説最後の「結び」には匡房の生臭い人間性の一面を表すものとして、大変興味深い一文が書かれております。

sakura-HP 九月の百人一首は                        四十二回 第73番です。

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2006年7月20日 (木)

第四十一回 百人一首

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sakura-HP← 百人一首の所の第四十一回です。   このページが直ぐに出なくて申し訳御座いません。

平安時代の女流歌人。高倉一宮紀伊とも呼ばれる。  紀伊の歌は、総じて己れの思いを素直に詠みあげて、理にはしることは少ない。歌合いの判者経信が評価したのもその点で、詩、歌、管弦に長じた風流人経信にとって紀伊の歌の素直な心の流れが、強く評価の対象となったのであろう。

歌合は「うたあわせ」と読みます。 

歌合せのことに就いて念の為ご説明をします。
① 歌合せは、村上天皇の天徳四年(960年)三月三十日に初めて開かれましたが、男達の詩合せ(漢詩)の斗いに対して、和歌の斗いもあるべしという女官達の企画提案で始まったものです。
② 詩合せと同じく左方と右方を定め、夫々の歌人が与えられたテーマを基に作歌し、それを左右夫々の講師が読み上げて、判者が勝負を判定するものです。
③ 判者は必ずしも一人ではありません。 天徳四年の時は三人でした歌は主題毎に予め左右二題提出されて、この時は全部で二十組、四十首でした。
④ 左右夫々に方人(かとうど)と呼ばれる応援団が居て、団長のもとにわいわい応援します。
⑤ 歌を読み終わる頃、楽人が出てきて歌曲を演奏し、「後の宴」が始まります。 酒盃がやりとりされ、宴は明け方にまで及び、天皇からはご褒美が下賜されました。
⑥ 両者の勝負は、判者が甲乙つけ難い場合は、天皇の気配を伺いながら判定することもあったようです。                 
                                 解説者  牧 宏安

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2006年6月20日 (火)

六月 百人一首講座

Photo

sakura-HP これをクリックしてご覧下さい。

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2006年4月20日 (木)

四月 百人一首

Hyaku_1 

百人一首  ←クリックをどうぞ!

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2006年3月13日 (月)

三月 百人一首更新

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Sakura-HP 三月百人一首更新しました

どう言う訳か今までのアップした記事が全部入りません。10日間お休みで失敗ばかりしております。お見苦しいですが当分このままでお許し下さい。

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2006年2月13日 (月)

小倉百人一首とは、、、

hyaku
□ はじめに
「婦人三田会」有志で構成する百人一首講座は平成十一年から始まり、
本年で七年目に入る。 講師は故折口信夫博士に師事し、昭和二十八年
慶応大学国文科を卒業された 伊藤哲夫先生である。テキストは江戸時代に発刊された 「百人一首一夕話(ひとよがたり)」尾崎雅嘉(まさよし)の注釈書を基にしているが、先月漸くその上巻が終了した。
この際一区切りということで、今月は「小倉百人一首」の概要に就いて説明があった。 下巻冒頭の六十九人目の歌人「能因法師」は、来月の講座の解説となる。
Sakura-HP 二月の百人一首 更新しました。

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2006年1月26日 (木)

一月の百人一首 更新しました。

tubaki_018  周防内侍 評伝     後冷泉・後三條・白河・堀川・ 鳥羽五代の天皇に仕えた内侍。周防守平棟仲の娘なので、周防内侍と呼ばれる。本名は 平仲子。内侍は多数の歌人と交際し、恋の歌も数多く作っているが、 夫や子供に就いての所伝はない。 生没年は未詳。

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