百人一首 第97番 「権中納言定家)
第97番 「権中納言定家」(そのⅡ)
□ 定家の作品(Ⅰ)
① 定家の母が亡くなった時
”玉ゆらの露も涙もとどまらずなき人恋ふる宿の秋風”
(新古今集・巻八哀傷)
② 六百番歌合より、春中十三番 雲雀(ひばり)
”末遠き若葉の芝生うちなびきひばり鳴く野の春の夕暮”
(玉葉集・春上)
③ 同上歌合より、恋Ⅱ 五番
”年も経ぬ祈る契りは初瀬山尾上の鐘のよその夕暮”
(新古今集・恋Ⅱ)
④ 二十才の時の歌
”いづる日のおなじ光に四方の海の浪にもけふや春はたつらむ”
⑤ 二十一才の時の歌
”冬きてはひと夜ふたよを玉篠の葉分(はわけ)
の霜のところ狭(せ)きまで”
(月歌和歌集)
”ふりにけるそのみづぐきの跡ごとに人の心を見るぞかなしき”
(堀河題・懐旧)
⑥ 二十三才の時の歌
”しのべやと知らぬむかしの秋をへて同じかたみにのこる月かげ”
(賀茂社歌合・月)
⑦ 二十五才の時の歌
”見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫やの秋の夕暮”
(二見浦百首)
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「権中納言定家(ごんちゅうなごんさだいえ)」(そのⅢ)
□ 定家の勅勘事件に就いて
□ 「折口信夫」著、定家晩年の歌風に就いてより抜粋。
定家の家集を「拾遺愚草(しゅういぐそう)」という。拾遺は侍従の唐名である。定家は後に正二位中納言に昇り、京極中納言と云われたのであるが、「初学百首」の出きた養和元年の頃は侍従であった。それで「侍従のつくっておいたつまらぬ詠草」という意味だ。おそらく晩年に定家自身が集めたものに違いない。
この中で制作時の明記してあるもので一番古いものは、貞永元年四月定家が七十一歳の時の「関白左大臣家百首」が一番古い。その前年の寛喜元年十一月には「女御入内御屏風歌」を作っている。此れも百首歌で七十歳の作である。
油の乗ってきた頃と、年とって枯れてきた七十歳頃と、その間四十年も隔たっているので、歌風の変化もみられる訳であるが、定家の歌風というものは、若い時と年取ってからとその間に一貫したものを持っていることが分る。
例えば私が以前、定家の枯れ切った頃の作品としてあげた
”末遠き若葉の芝原うちなびき雲雀鳴く野の春の夕暮れ”
私は新古今集の後に出きたものと思っていたが、実は三十二才の時の作品なのだ。
定家は元々こんな歌風をみせていたのだという事が分る。 ( 後略 )
□ 後鳥羽院御口伝の定家評に就いて ( 抜粋 )
あの定家という男は、確かに比肩する者のない歌人である。あのようにすぐれていた父俊成の歌をさえも敬服するに値しないと思っていたのであるから、まして彼が他人の歌を問題にもしていなかったことは云うまでもない。確かに定家の歌の優艶でしかも複雑な屈折に富んだ詠みぶりは、本当に類のないものと思われる。歌道に練達していた有様などは、特に勝れていた。彼の歌をよしあしを識別しているようすは、本当にたいそう見事なものであった。
但しある歌を弁護しようという気になると、鹿を強引に馬だと言いなすようなことも辞さなかった。その傍若無人な態度は常識を超えていた。
他人の言葉にまるで耳を借そうともしないのだ。 (以下後略)
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以上で「権中納言定家」の講義解説を終了。
次回は、第98番 「従二位宮内卿家隆」の解説を お送りします。
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牧 宏安先生
やっと一年ぶりの再開、本当に有難うございます。その後の体調はいかがでいらっしゃいましょうか、お伺い申し上げます。
愈々あと三人となりましたが、これからが又、百人一首 成立の重要な鍵を握る人物の登場!と伺っております。講義は年内一杯かかる予定との事ですが、どうぞお体にお気をつけられご無理のない様に宜しくお願い申し上げます。sakura
sakuraHP ←百人一首(そのⅡ)(その Ⅲ ) 解説が詳しく載っています。
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